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「貧困の抒情」のために

■「現代短歌」2018年3月号掲載。特集「分断は越えられるか」への寄稿。

 

 

肥えたまふ父を思へば吾が一生父ほどの俸給をとる事もあるまじ

 

近藤芳美『早春歌』(一九四八年)

 

たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく

 

山田航『さよならバグ・チルドレン』(二〇一二年)

 

 前者は一九三六年(昭和十一年)のアララギの歌、後者はゼロ年代の拙歌で、どちらも二十代前半のときの歌である。「親の収入超せない」というフレーズは大学時代のゼミの担当教授の発言を借りたもので、近藤芳美の歌は知らないまま作った。本歌取りではない。このオーバーラップは全くの偶然であり、だからこそ時代を超えて共通の感情が発露されたのだと読まれることもあるだろう。

  しかしその類似は表面的なものにすぎない。むしろ表面的に似ているからこそ、その本質的な差異を見極める必要がある。「父」と「親」という指し示す対象の違い。「吾」と「僕たち」の一人称の大きさの違い。どちらも意味がある。私は「僕たち」「僕ら」という複数主語を手癖でよく使いがちで、これは同世代を引っくるめてそう詠んでいるのだと論じられることが多いのだけれど、実際は必ずしもそうとは限らなくて、むしろ「僕と君」だったり「僕とツレ」だったり、狭い空間を共有する小さなコミュニティを複数形でまとめていることの方が多い。

 近藤芳美の父親は朝鮮殖産銀行の行員であったことを考えると、「肥えたまふ父」は植民地主義で膨張する日本そのもののメタファーとなっていると解釈することができる。そして父ほどの俸給をとることはないだろうという思いは、植民地主義の崩壊の予感と重ねて読める。

 一方、拙歌は地方都市の小さな地域コミュニティを念頭に置いたうえで作っている。「たぶん親の収入超せない」という実感を持ったときに直感していたのは、もし仮に自分に子どもが出来たとして(ペットボトルの補充はそのメタファー)、自分が享受してきた以上の教育環境を与えてやることが出来ないのだという思いであった。自分から下の世代は文化資本がやせ細り、貧困層となって再生産されていくかもしれない。そのことに異様なまでにリアルな恐怖を抱いていて、こんな短歌になった。かつての植民地主義のような肥大と崩壊の予感を持たないまま、ただ自分の属しているコミュニティそのものが経年劣化したまま続いてゆくという感覚だけを抱えて生きていた。

 現代の地方都市の郊外空間というのは、むしろ植民地である。「宗主国」である都心部から回される仕事がなければ崩壊する脆弱なコミュニティだ。近藤の歌は嫌悪感がみられるとはいえ背景はあくまで「膨張する日本」であるが、拙歌は「縮小する日本」を背景としている。表面的にあらわれている感情は似ていても、その背景が異なれば想定されるシチュエーションは変わってくる。

  「現代の若者の貧困を年長者はわかってくれない」という言論が生じたとき、たいてい「昔の日本の方がずっと貧しかった」という反論が出てくる。しかしそれは「貧乏」と「貧困」の区別が付いていない考え方である。例えるならば、歌集を自費出版するだけの貯金がないことが「貧乏」であり、短歌との接点がそもそも得られないのが「貧困」だ。「貧乏」が次第に「貧困」になっていくこともある。そして現代短歌は、「貧乏」は表現できても「貧困」を十分に表現できるまでには至っていない。「貧乏」は個人やせいぜい家庭くらいまでの小さなコミュニティの属性だが、「貧困」は家系や地域、階層といったもう少し大きなコミュニティの属性だ。したがって貧困層はそのコミュニティで内部言語を持っているのだが、そこをまだつかみきれていない歌人が多いのではないかと思う。これは世代よりも地域格差の問題の方がより大きいだろう。私見だが「貧困」に陥る条件として、「田舎に帰る」という選択肢が失われていることが挙げられると思う。「夢を諦めて実家に帰る」ことがセーフティネットとして機能しているうちはまだ「貧乏」にすぎない。石川啄木や寺山修司の表現した故郷喪失ですら、希望を据え置いたままの生ぬるい抒情でしかなかった。

 貧困を捉える概念には「絶対的貧困」と「相対的貧困」の二種類がある。「絶対的貧困」とは文字通り食っていけるだけの生活水準に達していない状態のこと。「相対的貧困」とは所得の最も高い人と低い人を順に並べたとき、その中央値以下の所得しかない人の割合を示す。つまり、国内の所得格差があらわされる。国際的に貧困率を比較するときに、信頼できるデータをとりやすくなる。この相対的貧困率が日本は16%前後と先進国の中では高い方で、チリやラトビアとほぼ同水準。これより高い先進国はアメリカくらいである。日本人の6、7人に1人が貧困状態なのだ。つまり、日本全体が他国と比べて貧しくなっているのである。「絶対的貧困」に属する内部言語は、歴史を参照することでまだつかみやすいかもしれない。しかし「相対的貧困」に属する内部言語は多くの歌人たちにとって、もとより想像の埒外にあるものだ。人口が増加してゆくことを前提とした近代日本式の社会設計では、想定されていない状態なのだ。

  日本では90年代半ば以降、子どもの相対的貧困率が上昇傾向にある。とりわけひとり親世帯(日本においては大半が母子家庭)になると貧困率は54%にまでぐっと上がる。「離婚をしたら即アウト」とすらいえる母子家庭の窮状がある。二〇一五年の短歌研究新人賞は、受賞作の遠野真『さなぎの議題』をはじめ、虐待や家族不和を題材とした作品が多く上位選出されたことが話題となった。確かに新しい可能性を持った作品が目立ったわけだが、同時に「今さらそんな程度のことで騒ぐのか?」という印象も抱かざるをえなかった。そんなテーマは他のどんな文化芸術もずっと前に通過済みだったからだ。言ってしまえばつい数年前まで、短歌の世界には「ひとり親家庭」や「不和を抱えた家庭」は、(そうした家庭を抱えた歌人も現実にいたにもかかわらず)存在しないことにされていた。所得の低い家庭では貧困が「遺産」となり、子ども世代にまで連鎖してゆく。特に学歴の分断は顕著で、日本では大卒と非大卒とで全く違う国に暮らしているといっていいくらいコミュニティが分かれてしまっている。

 斉藤斎藤が二〇〇七年に発表した批評「生きるは人生と違う」(「短歌ヴァーサス」十一号)は、「相対的貧困」が現代短歌に与えた影響をいち早く指摘してみせた重要な論考だ。
 

若者が〈私〉に尊厳の根拠を置かざるを得ないのは、社会が流動化し、中長期的な「私」の安定が奪われたからである。いつ首にされるかわからないような身分で、社会的な「私」に尊厳を置きすぎるのは自殺行為だ。わかものに「私」を大事にさせたければ、わかもののほとんどが正社員として終身雇用される社会に戻すべきである。そんなことが可能だとすればだが。 

 

「生きるは人生と違う」 

 

 この文章で斉藤が「若者」の代表として引いている歌人は永井祐、今橋愛、中田(現・仲田)有里である。この論考に対し吉川宏志は「社会の流動性なら昔(たとえば高度経済成長期)の方がよっぽど高かった」と反論するのだが、「社会の流動性」という語の定義に食い違いがみられた。斉藤は経営者が労働者を解雇しやすくなるというような「雇用の流動性」のことを言っていたのだが、吉川は上流階級と下層階級がフレキシブルに入れ替わるという意味の、「社会階層の流動性」のことを持ち出していた。3歳差しかない斉藤と吉川であるが、就職氷河期の経験が決定的に両者を分かつものだったのだろう。一言に「社会の流動性」とだけ言ったとき、「下がる」ことのみが前提となっていて、「上がる」可能性はもとより考慮に入れられていない。それが団塊ジュニア以降の世代の感覚なのだ。つまり子どもの相対的貧困率が上がり始めた時期から、「貧乏」に代わって「貧困」が表面化するようになり、啄木・寺山的抒情は敗北をみせ始めた。それでは「貧困」の抒情といえるものはあるのか。具体的にあげるなら、一九九四年のテレビドラマ『家なき子』(野島伸司脚本)が生んだ流行語、「同情するなら金をくれ!」。その台詞の通り、「貧困」は偽善的な同情と生ぬるい抒情を無効化する。速水健朗に、日本社会の没落的変化の起点を阪神大震災とオウム事件の起きた一九九五年にみる『1995年』(ちくま新書)という著書がある。それによれば90年代半ば頃に「終身雇用」「年功序列」といった日本型雇用制度が崩れ始めた。消費文化の面でみても、「がんばっても意味がない」という世界観が『新世紀エヴァンゲリオン』などにみられるようになる。そして枡野浩一が角川短歌賞の「最高得票落選」で鮮やかに登場したのもこの年である。枡野をいまだ短歌史の上で的確に位置付けられていないのは、現代短歌がいまだ「アフター95年社会」を受けとめきれていないあらわれだろうと思う。枡野が詩的装飾を排そうとしたことや、過度とみえるまでに商業性を重視したことは、単なる個人の作家性ではなかった。嘘偽りのない「貧困の抒情」が求められる時代の要請を、しっかりと受けとめて出てきたものであった。

 貧困の問題は、階層によってあまりにコミュニティが住み分けされてしまっているために、想像すらもできなくなっている部分があまりに多い。しかしそのことを責めても仕方がない。歌人が創作者としてした方が良いのは、「別の階層」に飛び込んで他者をリアルで感じることだけだ。「貧困」は見ようとしなければ見えない。断絶を埋め合わせることができるのは、アクティビティだけなのだ。